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ー13ー 桃源郷

 深い深い森の中、あたりは暗闇に包まれていた。ヒューヒューという風の音が木々の間をすり抜け、ザワザワと枝葉を揺らしている。まるで木々の枝が亡霊の手となって、今にも俺に襲いかかってくるようだった。その恐怖から逃れようと、俺は必死に走り続けた。
 俺はいったい何時間、こうしてたとえようのない恐怖にさらされているのだろう?  とその時だった。無我夢中に走る俺の目の前に突然大木が現れた、そして次の瞬間、耳をつんざく雷鳴とともにその大木に雷が落ちた。俺はその場で意識を失った。

 気がつくと、俺は古い民家の部屋で寝かされていた。近くに若い娘の姿が見える。

 夢――そうだ、恐ろしい夢を見ていた。森の中を死に物狂いで逃げ惑う夢を。ここはどこだ? 俺はなんでこんなところに?

 俺が目覚めたことに気付いた娘は、慌てて誰かを呼びに行ったようだった。

 思い出した! 俺は登山をしていたんだ。そして、足を滑らせて……

 娘から知らせを聞いた父親らしい男が現れた。心配はいらない、今役場に知らせたからじきに役所の人が来てくれる、とその男は言った。

 俺ははっきりと思い出した。
 俺は昨年リストラにあい、職探しの日々を送っていた。そんな俺に見切りをつけ、もともと不仲だった妻は出て行った。もう家賃が払えない俺も今月にはここを出て行かなければならない。そして、今は兄が住んでいる実家に頭を下げて置いてもらうか、ホームレスになるかというところまで追いつめられていた。俺はそんな現実から逃れるように山に登っていたのだった。

 役場の人が来て事情を尋ねられた時、俺は軽い記憶障害を装った。こんな形で実家に連絡が行くのを避けたかったからだ。そして申し訳ないと思いつつ、村人の善意に甘え、しばらくここに置いてもらうことになった。ほんの少しの間、元気を取り戻すまで……

 ここは、山あいにある民家が数件の小さな集落だった。ほどなく俺は、世話をしてくれる娘と心を通わせるようなっていた。その娘のためにもいつまでもこんな状態でいるわけにはいかない。

 俺は回復したことを村人たちに告げ、心からの礼を言った。そして娘には、用を済ませ必ず戻ってくるから待っていてくれと告白した。しかし、町に戻れば二度と戻ってくるはずはない、そう悟ったのだろう、娘の目にはあきらめの涙が滲んでいた。言葉では伝わらないと思った俺は、一日も早く戻ってくるしかないと、村を後にした。

 町に戻った俺は実家を訪れ、山奥の集落で暮らすことにした、と両親に告げた。職を失い、妻に見捨てられた俺を心配しつつも、兄への遠慮だろう、年老いた両親はいつでも戻って来いとは言わなかった。俺はこれでいいと思った。これまでのすべてと決別し、新しい道を歩む、そう決心した。

 急ぎ集落へ戻ると、俺の姿を見た娘は驚きの涙で迎えてくれた。こんな俺をこれほど待っていてくれる人がいるのだと心底感激した。そして、この娘をずっと大切にしようと心に誓った。

 あれから何年、いや、何十年たっただろう。

 すっかり歳をとり、足腰がきかなくなった俺をその女は変わらず支えてくれている。結婚という制度や妻という肩書など、この山奥では何の意味も持たない。ただ、一緒にいたいからそばにいる。

 この女がいる場所、それこそが俺の桃源郷なのだ。


by mirror-lake | 2017-02-13 08:39 | ショートショート

ささやかな楽しみで書いている物語。   誰かの心に染みてくれることを願って……

by 鏡湖