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平安の月 <最終章>


 数日の間、笹は家に閉じこもり、考えに耽った。そして夜になると、縁側に出て月を眺めた。静寂と漆黒の闇の中、この世には、月と自分だけが存在しているように思われた。

 気持ちが定まらぬまま、笹はあくる日、家を出た。岩場が近づくにつれ、言葉が見つからない笹の足取りは遅くなった。そして岩場を見渡せる丘に着いて見上げると、そこに男の姿はなかった。あれからまだ十日足らず、もう旅立ったとは思えない。

 笹は慌てて見世物へ向かった。いつもの賑わいの中、男を探したが、どこにもその姿はない。そして、出番を終えた踊り手に聞いてみた。すると、笛吹きの男は病に臥せっているという。その場所を聞いて近くまで行くと、世話好きそうな近所の女が教えてくれた。その女から聞いた病の名で、笹は自分のなすべきことを悟った。

 

 その昔、父から薬草の知恵を伝授された時、決して取りに行ってはいけない草の話を聞いた。万病に効くその薬草は危険な岩場に生えていて、誰も取ることはできないという。

 男の病は、その薬草以外でもはや治ることはない。死を待つだけだ。あの禁断の薬草を取るしかない。でももし取れたとしても、そのまま落ちてしまっては、男の元へ薬草を届けることはできない。

 笹の薬草をいつも求めている村人に、鳩を飼い慣らしている男がいた。笹はその男の元へ行き、鳩を一羽借りた。そして、鳩に大切な薬草をつけて放すから、それを笛吹きの男に飲ませるようにと頼んだ。長年、笹の薬草に世話になっていた鳩飼いの男は、快く引き受けてくれた。

 

 笹は家に戻り、明日の準備に取りかかった。それが済むと、門のそばの楓の木の前に立ち、しばらくの間、鮮やかに紅葉した楓の葉をじっと見つめていた。愛娘へ、永遠の別れの言葉を託すかのように……

 夜を迎えると、笹はいつもの縁側に座った。月はいつもと変わることなく、煌々とあたりを照らしている。

 笹は、あの男のために自分が何かできることが、心からうれしかった。たとえ、それで命を失うことになってもなんら悔いはない。昔、父から伝授された薬草の知恵はこの時のためだったとさえ思えた。

 

 

《 この身にて 君の命がつながれる ありがたきこと 別れの月光 》

 

 

 翌日、岩場のそばに笹は立っていた。初めて若者を見て以来十数年、通い続けたこの岩場の下に、その大切な人の命を救う草が生えている。何とも不思議な巡り合わせだった。

 命綱を結ぶ木がないので、岩場から下りることはできない。わきから滑る岩肌を伝っていく以外にない。笹は一歩ずつ慎重に薬草を目指した。岩の小さなくぼみに手をかけては、足場を探して少しずつ移動を続けた。

 そして、ようやく薬草までたどりつくことができたが、そこからが大変だった。岩につかまっているため、自由になるのは片手だけだ。笹は、口にくわえている袋に、慎重に薬草を詰めた。そして、胸に入れていた鳩を静かに取り出した。

 お願いだからおとなしくしてね、と心で祈りながら、薬草の入った袋を鳩の足に結び付けようとした。しかし、岩場に捕まっている指は痺れだし、袋を結ぶもう片方の手も、震えてなかなかうまくいかない。額からは汗がつたい、気が遠くなりそうになりながら、笹は必死に作業を続けた。そして、どうにか鳩の足にしっかりと袋を結びつけると、最後の力を振り絞って、鳩を空に放った。するとその反動で、笹の体は宙に投げ出された。

 落下していく笹の目に最後に映ったのは、若者が助かるはずの薬草を運ぶ鳩の飛び去る姿と、見えるはずのない美しい満月だった。

                  



                           完



by mirror-lake | 2020-05-08 08:13 | 『平安の月』

ささやかな楽しみで書いている物語。   誰かの心に染みてくれることを願って……

by 鏡湖